LOGIN付き合いはじめてから、小夜は校門の少し手前のほうで待ってくれていた。
朝の光はまだ白く、海風は少し冷たい。けれど俺の胸の中だけは、季節がふたつ先を走っているみたいにあたたかかった。 「おはよう、鉄」 「おはよう、小夜」 名前を呼ばれるたび、耳の裏がくすぐったい。小夜は手を差し出して、俺が握ると、その手はやっぱり少し冷たかった。冷たさはすぐに俺の手の中で馴染み、ふっと息を吐くように体温をわけ合う。 「今日ね、窓際の席、光が柔らかいんだぁ」 「じゃあ一限目は眠気との戦いだな」 「私が起こしてあげる」 「頼んだ」 たぶん、そのやり取りを何度繰り返しても、嬉しくてしょうがないんだと思う。校舎に入ると、廊下の空気が塩のにおいを薄め、かわりにチョークの粉っぽさが鼻先にくっつく。登校してくる生徒の視線がふっとこちらへ揺れ、すぐに戻る。近すぎず遠すぎず、俺たちの輪郭をなぞって通り過ぎていく。 席につき、ホームルーム。連絡事項はいつも通り。俺がうっかりため息を漏らすと、小夜が横からメモ用紙を滑らせてきた。 『今日の月、十日目。帰りに見えるよ』 小さな字。きれいなクロッキーのような月のスケッチまで付いている。俺は親指を立て、メモの端に『見よう』と書き足した。紙一枚のやり取りが、胸の中の何かを静かに整える。甘いというより、落ち着くようなそんな感じ。 昼休みの屋上は風が強く、空は高い。 レジャーシート代わりに敷いたタオルの上に並ぶ弁当。俺は購買のパンを二つ。小夜は小さな二段弁当――上段は白いおにぎりが二つと漬物、下段は柑橘の切れ端がきれいに並ぶ。飲み物はやっぱり水だ。 「それ、足りるのか?」 「うん。このくらいがちょうどいいんだ」 「ちょうどいい」を見つけるのが、彼女はうまい。 俺が袋からメロンパンを出すと、小夜が少し身を乗り出した。 「それ、好きなの?」 「うん。子どもの頃からずっと好きだった」 「そうなんだ。……匂い、かわいいね」 「かわいい匂いってなんだよ」 「鉄に合うよ」 直球で言われるとなんだか照れる。パンが急に“特別なパン”になって、噛むたびに笑いそうになる。俺が水を飲むと、小夜がペットボトルの口元をのぞいてくる。 「炭酸じゃないの?」 「今日はやめた。……小夜に合わせた」 「そうなんだ。ありがとう」 ありがとうと言う時、小夜は少しだけ視線を落とす。照れかくしではなく、言葉の重さを指で確かめてから置くみたいな間で、そんなところも、好きだ。 食後、俺はスマホを取り出した。「プレイリスト、作ってきた」 「海のやつ?」 「うん。“海に月がおりるとき”ってタイトルにしたんだ」 「きれい」 イヤホンを片方ずつ分ける。流れてくるイントロが潮騒みたいに柔らかく、ベースが低く響く。 小夜の肩が触れる。髪の匂いは薄く、風の匂いが勝っている。曲のサビで、彼女が小さく息を吸った。 「私、これ好きだよ」 「よかった」 「鉄の“好き”と、私の“好き”が重なるの、嬉しいな」 たったそれだけの会話で、午後の五限が全部ご褒美に変わる。甘さ、ってこういう密度のことを言うんだと思う。 放課後。駅のベンチ、いつものように2人並んで座る。 俺と小夜は肩を少しだけ寄せ、メッセージを往復させる。目の前にいるのに、メッセージで話したい内容があるのが不思議だ。言葉を重ねると、画面が柔らかく光るみたいに見える。 小夜《明日の朝、校門の前で待ってる》 俺《俺が迎えに行く》 小夜《先に着いたほうが勝ち》 俺《勝ったら?》 小夜《勝ったら、鉄に“おはようのハグ”》 俺《全力で勝ちにいくぜ》 文字にするのはときどき照れくさい。けれど、文字にしたほうが、その言葉に触れられる時間が長い。スクショにして、こっそり保存したい衝動を必死に抑える。 電車が来ると二つのホームに分かれ、ガラス越しに手を振る。小夜はいつも、最後の最後まで目を離さない。電車が動いても、角を曲がって見えなくなるまで、ゆっくり手を振る。 俺は車内で、胸の真ん中に何か温かいものをしまう。無くさないように、名前をつける。――“今日”。 甘い日々は、形を変えながら続いた。 雨の日は透明傘に二人で入る。傘に当たる雨が数を増すたび、俺の脈も数を増す。 図書室では同じ机の両端に座り、真ん中に詩集や参考書を積んで小さな壁を作る。壁越しに、一行だけ紙を滑らせる。それが合図。『この一節、好き』『わかる』――文字で交わした“好き”は、声よりも少しだけ深く沈む。 休日の街では、喫茶店の隅で二人で席を取る。俺はブレンド、小夜は水、ときどきホットレモン。 小夜がメニューの一角、赤いソーダの写真に目をすべらせ、すぐに視線を外す。赤が苦手なのは、前から何となく知っている。理由は聞かない。聞かないことが、誰かを守ることもある。 手をつなぐと、小夜の手はいつも冷たい。 冷たいのに、握っているうちに、ひんやりが心地よくなる。微熱に当てた保冷剤みたいに。 「ねえ鉄、手、握って」 歩道の端、小夜がそう言って指を差し出す。俺が握ると、彼女は安心したみたいに息を吐く。俺も同じタイミングで息を吐く。その呼吸の一致に驚いて、笑う。 「息ぴったりだな」 「ね」 そんな小さな一致が、甘さを増やしていく。 そんな日々をすごしていると ――気づいたら、俺は少しずつ、疲れやすくなっていた。 最初は、ただの“恋の副作用”だと思った。夜更かしが増えたせい。メッセージが楽しくて、小夜の事ばかり考えると心臓が爆発しそうなほど高鳴って、寝るのが遅くなる。 でも、二週間目くらいから、朝の目覚めが重くなる。階段で息が上がる。体育の持久走で足が早く重くなる。昼過ぎには眠気が鋭く刺さってきて、黒板の文字が二重に見えることもある。 鏡を見ると、目の下に薄い影。 そっと首筋に触れると、うっすら赤い痕がある日もあった。蚊、だと思いたい。 「鉄、顔色悪いよ」 屋上で蓮花が眉をひそめた。 「ん〜……寝不足だよ」 俺は短く答える。 「ほんとに?」 「ほんと。大丈夫だって」 その時、隣で小夜が水を飲む音だけが、やけに大きく聞こえた。視線を向けると、小夜は穏やかな笑みをつくっている。けれど、その目の奥に、小さな波が立っていた。 「鉄。無理、しないで」 「うん。……でも、小夜に会いたいから」 「私も同じだよ」 目と目が合う。そこで、俺の中の“理性の係”はあっさり負ける。甘さは麻薬だ。わかっている。わかっているけど、やめたくない。 夜の海に小夜と2人で来た。 風が少し生温かく、波は低い。 砂の上に並んで座る。小夜が肩に頭を預ける。髪が首筋に触れると冷たい感じがする。 彼女が顔を上げ、月が細い光の輪郭をつける。 唇が触れ――そのまま、首筋に柔らかい温度が広がる。 痛みはほとんどない。むしろ、ふっと体が軽くなる。頭の中に白い光が満ち、波の音が遠のく。 しばらくして、彼女は離れる。俺はゆっくりと息を吸う。酸素が美味しい、と初めて思った夜。 「鉄」 「ん?」 「ありがとう」 礼を言われる筋合いは、本当はないのに。俺は笑って頷く。 彼女の目は潤んでいて、でも泣きそうというより、満ちている表情だった。 「大丈夫?」 「大丈夫だよ」 嘘は混ぜたくない。けれど、言葉の一部は自分に向けた祈りになる。 帰り道、足取りが少しふらふらする。 でも、幸福感が上書きする。 帰宅してシャワーを浴びて鏡を見る。首筋の赤い痕があるけど、翌朝にはひどく薄くなっている。やっぱり蚊だ。蚊に違いない。 布団に倒れ込むと、すぐに眠気が襲ってくる。眠る直前、スマホが震える。 『今日の月、きれいだったね』 『きれいだった』 『鉄、おやすみ』 『おやすみ、小夜』 眠りの底へ沈むとき、胸の上に置いた手の重みが、いつもよりすこし軽い気がした。 噂は、足音を立てずに増える。 毎日同じ廊下を歩いているのに、壁の色がじわじわ濃くなるみたいに。 最初に聞いたのは、男子トイレの鏡の前だった。 「なあ、お前聞いたか」 「なにが」 「椿さんのさ」 「おい、今は――」 声はすぐに止んだ。俺の気配に気づいたのかもしれない。 別の日、掲示板の端に、匿名の紙が貼り付けてあった。『夜に気をつけろ』――よくあるいたずら。だけど、その下に鉛筆で『椿』の文字が薄く書かれていた。俺はそれを剥がして丸めてゴミ箱に投げ捨てた。 また別の日、体育館の裏で女子の囁き。 「前の学校でも……」 「付き合った人、次々と……」 「今も入院してるみたいだよ」 俺は通り過ぎるとき、耳の穴を閉じるみたいに、内側から力を入れる。 教室の空気も、少しずつ変わった。遠巻きの視線や小さな沈黙、笑いの終わりが少し早い。 でも、小夜は変わらない。 俺はそれを支えにする。 支えにすればするほど、足元がたまに沈む。 それでも、彼女が俺の名前を呼べば、それで立てる。 期末前の補習の日、俺は初めて保健室のベッドに倒れた。 体育のアップで目の前が白くなり、次の瞬間には保健室の天井を仰いでいた。 保健の先生がスポーツドリンクを差し出す。 「脱水と、寝不足。あと、貧血気味ね。君、低血圧なのかな?」 「大丈夫です」 「大丈夫なわけないでしょ、とにかく気をつけなさいよ」 柔らかい声だった。 カーテンが揺れて、小夜が立っていた。 「鉄」 「ビビらせてごめん」 「……大丈夫?」 「先生が“寝てろ”って」 小夜はちいさく笑う。 「先生は、正しいね」 椅子を引いて、ベッドの横に座る。 「手、握ってていい?」 「うん」 冷たい手が、俺の手を包む。体温が混ざる。まぶたが重くなって、眠気が襲ってくる。 眠る直前、小夜が額に手を添えてくれた。指先が、ひやりと気持ちいい。 「鉄、無理しないで」 「うん」 「私のことより、もっと自分のことを大切にして」 それは、彼女が言うと重くやさしかった。 瞼が重くなり、眠りに落ちる。 目を覚ますと、窓の外は夕方。保健室の空気は少し冷たく、カーテンの影が伸びている。 小夜はいなかった。 ベッドの横に、小さなメモ。 『おやすみ、鉄。起きたら水、飲んでね』 俺は笑って、メモをポケットにしまった。薄い紙が、護符みたいに感じられた。 翌日、甚太が言った。 「鉄、痩せたか?」 「気のせいじゃないか」 「気のせいなわけないだろ。明らかに頬がこけてるぞ」 「しつこいな。お前は俺の彼氏か」 「彼氏じゃない。幼馴染だ」 蓮花も隣で頷く。 「ちゃんと食べてる?」 「食べてる。メロンパンをな」 「それじゃあ、栄養が偏ってるでしょ」 「うるさい栄養士だな」 「うるさい友達だよ」 その言葉は、ありがたい。 でも、ありがたいを素直に飲み込むには、俺の体のどこかが少し弱っていた。 最近は、朝が異様に重く感じる。 けれど、小夜と会えば 軽くなる。 軽くなった分、どこかが薄くなっている気もする。 それでも、彼女が笑えば俺も笑える。 嫌な噂はやがて形を持つようになる。 匿名の掲示板に、書き込みも増えてきた。 『椿小夜と付き合った人、気をつけたほうがいい』 証拠のない断定的な言い方だ。 目に入ってしまったのは、俺の自業自得だ。見なければよかったと言うには、あまりに遅すぎた。 同じスレに、“明らかに違う名”で俺の特徴が書かれていた。身長、容姿、イニシャル。 なんだか監視されてるようで肩が冷えた気がした。 スマホを画面ごと伏せる。 そこへ、ノートの端が滑り込んだ。 『今日の夜、海、行く?』 小夜からのメッセージだ。 俺はシャーペンで、『行く』とだけ書いた。 理由はいらない。必要なのは、海風と、月だけだ。 その夜の海は、静かだった。 波は小さく、音は浅い。 小夜はいつもより話さなかった。 俺も、あまり話さなかった。 かわりに、手をつないだ。 手の冷たさ、指の細さ、握る力の加減、それだけで、十分だった。十分だと信じたかった。 「ねえ、鉄」 「……ん?」 「……私のこと、怖い?」 唐突な問いで、俺は、すぐには答えなかった。 正直でいたい。正直でいたいから、言葉を選ぶ。 「怖く、ない。……でも、心配はしてる」 「……心配?」 「俺が勝手にね。噂は、噂だけど、俺が弱ってるのも事実だから」 「ごめんね」 「謝るなよ」 謝罪は、距離を作る。距離は、俺が望むものじゃない。 「俺は、会いたい。会いたいから、会う。疲れてても、会うんだ。会ったら、すごく軽くなるから」 小夜は目を伏せ、短く頷いた。 「ありがとう――」 それから小さく続けた。 「それでも、鉄の体は、鉄のものだから。私のものじゃないから」 「そんなの、知ってるよ」 「……大事にして。自分を」 「小夜も、自分を大事にするんだぞ」 「……うん」 月が薄く、海に細い道を落とした。 帰り道、俺は少しふらついて、小夜が支えた。 「大丈夫?」 「大丈夫……」 嘘ではない。嘘ではないが、本当でもない。 翌週、俺はまた保健室に運ばれた。今度は授業中に黒板の文字が遠くへ流れていき、耳鳴りの向こうから先生の声が聞こえた気がした。 目を開けると、窓の細長い光がカーテンに縞を作っている。 小夜は来ていない。 代わりに、蓮花がいた。 「馬鹿……」 「ただいま」 「“ただいま”じゃない!」 彼女の目は本気で怒っていた。 「噂は噂だよ。信じたくないのはわかる。でも、鉄の体は鉄のなんだから。そこを軽く見ちゃダメ!」 「……わかってる」 「わかってない!」 蓮花は深く息を吸って、吐いた。 「小夜は、鉄が思ってる以上に、鉄のこと大事にしてるよ。だから、鉄が自分をないがしろにすると、あの子がいちばん傷つく。わかるよね?」 胸の奥、痛いところに指を突っ込まれたみたいだった。 「――わかった」 「ほんとに?」 「ほんとに」 蓮花はようやく肩の力を抜いた。 「なら、よろしい」 「甚太は?」 「廊下で先生に捕まってる」 保健室を出るとき、蓮花がふと口元を引き結んだ。 「……噂、広がってるの。でも、私は信じないよ。今は――」 「ありがとう」 「“今は”って言ったでしょ。でも。もし本当なら……ううん、だから、鉄も真実から目を背けないで」 「わかった」 廊下に出ると、小夜がいた。俺を見て、安心したように小さく笑う。 「おかえり」 「ただいま」 蓮花は気配を消すみたいに別方向へ歩いていく。すごいな、と心の中で拍手した。 「無理、してない?」 「してないよ」 「ほんと?」 「ほんと。……今日は、早く帰る」 「うん。送るよ」 校門を出て、いつもの道を歩く。俺に気を遣っているのか、あまり言葉は交わさなかった。それでも、2人で一緒に帰る道はどこか甘く嬉しいものだった。 夜。ベッドの上で、スマホを握る。 画面の向こう、小夜からのメッセージ。 『鉄、今日は早く寝てね』 『わかってる。もう寝るよ』 『おやすみのハグ』 『受け取った。おやすみ』 送信してから、俺は天井を見た。 疲労は、砂みたいに体の中に溜まっている気がする。 俺は目を閉じた。夢の中で、海に浮かぶ月を掬おうとして、指の間からこぼした。 翌日、校門の前で小夜が待っていた。 「おはよう、鉄」 「おはよう」 手をつなぐとやっぱり小夜の手は冷たい。 俺は、少し弱っていて、彼女は少し強がっている。 2人の間にあるのは、言葉より先にある何かだ。 それを信じられるうちは、まだ進める。 教室に入ると、どこかの列で小さな笑い声が聞こえた。 俺はそっちを見ないで、席につく。 黒板に『小テスト』の文字にため息を飲み込み、シャーペンを握る。 隣から、紙が滑ってきた。 『今日も月が見えるよ』 俺は笑って、紙の端に『見よう』と書いた。 噂は、噂で真実じゃない。 廊下の風が塩を運び、窓の光が黒板に跳ね返る。 俺のなかで鳴る鼓動は、まだ十分に大きい。 ――その鼓動のリズムが、いつか大きく狂う日が来るのだとしても、今はまだ、彼女手の冷たさが、俺の体温をやさしく撫でてくれる。 月は満ち、欠け、また満ちる。噂は膨らみ、形を変える。 俺の体は衰弱する一方だけど、笑ってまた手を伸ばす。 その手の先に、いつも小夜の名前がある。 それが、今の俺の、全部だ。 倒れたのは、ほんの一瞬の出来事だった。 朝の支度をして、靴ひもを結ぶために屈んだとき、視界の端が黒く滲んだ。次の瞬間には床の冷たさが頬に触れ、世界の輪郭がぐにゃりと曲がっていく。遠くで電子音が鳴って、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。けれど、返事は喉の奥でほどけて消えた。 気がつくと、自分の部屋だった。カーテンの隙間から昼の白い光が差し込んで、床に薄い四角を作っている。喉が乾いて、体の芯がやけに軽い。軽いのに、起き上がろうとすると鉛みたいな重さが全身を引っぱった。額に触れると熱はない。あるいは、熱のありかが身体のどこにも見つからないだけかもしれない。 枕元でスマホが震えた。 画面をのぞくが、文字が滲む。もう一度瞬きをして、やっと読める。 蓮花《鉄、生きてる? 今日は来ないって甚太から聞いた。大丈夫? 無理しないで。プリントは持ってくから、休んでて》 甚太《大丈夫か。とりあえず、寝てろ。体調が良くなったら連絡しろ。先生には俺から言っといた》 指先がうまく動かない。けれど、返信だけはしたかった。心配という二文字が、こんなにもまっすぐ体の中に入ってくることを、今さらみたいに知った。 鉄《ごめん。ちょっと倒れた。今日は休む。プリント助かる》 送信の青が、少し救いの色に見えた。 呼吸を整えようとして、ふと、胸の奥が鈍く沈む。いやな沈み方だ。そこに名前を当てるなら――不安、だ。 小夜のことが気になって、スマホを握り直して、二人にもう一つメッセージを送る。 鉄《小夜、今日はどうしてる?》 送ってすぐに後悔した。彼女のことを、誰かに問いただすみたいで。だけど、今の俺には、事実をつかむ手が少ない。 蓮花からの返信は、いつもより遅かった。既読の灰色の点が、砂粒のように重く感じる。 蓮花《……今、教室の空気がよくない。詳しいことは、会って話す》 曖昧だけれど、その曖昧さは、蓮花が軽い嘘をつけないからこそ選んだ言い回しのように思えた。続けて、甚太からメッセージが来る。 甚太《小夜のこと、今は断片的にしか言えない。学院中で、距離を置かれてるのは本当だ。俺たちは……俺は、様子を見てる》 様子を見てる――その言い方に、胸の底に火が落ちた。小さな火だが、乾いた草に触れれば広がる。 鉄《なんで、味方になってやらない。お前らならできるだろ。見てるだけなのかよ!》 送った瞬間、自分の鼓動が荒くなっているのがわかった。熱で浮かされたみたいな怒りだ。けれど、抑えられなかった。彼女が今、どんな顔で教室に座っているかを想像するだけで、喉がきしむ。 返事は、すぐには来なかった。 十分、十五分と砂時計の砂みたいに時間が落ちていく。 やっと、蓮花から返信がくる。 蓮花《鉄、私も戦ってる。けど、鉄が倒れたことで、小夜への疑惑が確信に変わってきてるの。だから、今はまだ、ごめん》 甚太からも返信がくる。 甚太《味方だよ。だから慎重になってる。俺が軽はずみな味方の仕方をすると、鉄と小夜に風が向く。……信じろ、俺を》 信じろ――そんなの信じるに決まっている。幼馴染を、簡単に疑いたくはない。けれど、同時に、待てない自分がいる。信じる自分と、急かす自分が同じ胸の中で喧嘩を始める。 だったら、直接、確かめるしかない。 小夜の名前をタップする。メッセージ欄は、昨日までのささやかなやりとりで埋まっていた。『おやすみ』『おはよう』『今日の月』――その連続の延長線上で、俺は短く打つ。 鉄《小夜、今どこ? 大丈夫?》 送信したけれど既読は付かない。 ベッドの上で体を横にし、天井の角を見つめる。時計の秒針がやけにうるさい。喉が渇いた。水を飲むと、胃が水の重さを忘れかけているみたいに、しばらく冷たさの居場所が見つからない。 小さな画面の向こうで、時間が膠のように伸びる。 ようやく、既読がついて、小夜からの返信がくる。 小夜《大丈夫》 その二文字に、安堵は半分しか乗っていなかった。 “だいじょうぶ”という言葉は、時に優しい嘘の仮面になる。いつか彼女自身が言った。「“大丈夫”は、自分に言うときがいちばん多い」――それを、思い出す。 鉄《今夜、会える?》 返事までの間隔が、また長くなる。 体の重さは増しているのに、心は浮き足立って、部屋の角という角にぶつかっていく。 小夜《今日は、やめておいたほうがいいよ……鉄、休んで》 その言い回しは、優しい拒絶だ。けれど、今は引けない。引いたら、噂の形に俺たちが飲み込まれる。 鉄《会いたい。大丈夫じゃない。噂がどうとかじゃなくて、俺が、会わないと持たない。……お願いだ。いつもの浜辺で》 送った瞬間、指がわずかに震えた。わがままだ。けれど、わがままを言えるのは、恋人の特権だと、勝手にルールを書き換える。 長い沈黙が過ぎて、夜に灯りを点けるみたいに、短い返事が来た。 小夜《……わかった。いつものところ。十九時に待ってる《》》 滲む文字を指で撫でる。 時計の表示が、やけに鮮明に見えた。 バス停までの歩道はいつもより長く、アスファルトの粒が増えたように思える。足が重く引きずるように歩き、階段で呼吸が上がる。肩で風を切る、なんて派手な動作はできず、風に肩を押されるみたいに進んだ。 バスの揺れは心地よいはずなのに、今日は少し気持ちが悪い。窓に映る顔がやつれて見えて、窓から目をそらす。目を閉じれば、海の匂いが鼻腔に戻ってくる。ここから先は、身体の記憶で歩ける場所だ。 浜辺に着くと、まだ空は夜の名を名乗り切れていなかった。水平線の上で薄い群青がゆっくりと濃さを増し、波の白がいっそう白く見える時間。風は一定で、潮の匂いは深い。 そこに、小夜がいた。 海を背に立つ姿は、最初に見た教室の横顔を、海風で少しほぐしたみたいに見えた。 「鉄…」 名前を呼ばれるだけで、足の重さが一瞬どこかへ行く。 数歩近づくと彼女は一歩だけ後ろへ引いた。砂がさっと鳴る。その躊躇の幅が、今夜の風の角度を教えてくれる。 「ごめんね。無理して来たんでしょ?」 「してない。いや……ちょっと、してるかも」 嘘は混ぜない。彼女の前で嘘はつきたくなかった。小夜は困ったみたいに笑って、首を振った。 「わがままだな、鉄は」 「わがままを言いに来た」 「ふふ。知ってる」 会話の外側で、波が寄せては返す。砂の上で水が薄く走って、すぐに引き、また来る。目の前の彼女も同じだ。近づいて、引いて、また来る。そのたびに、胸の内側の砂が形を変える。 「今日、渡したいものがある」 そう言って、俺はポケットから小さな箱を取り出した。黒に近い紺の、掌に収まる箱。指先が少し震えるのを、風のせいにする。 箱を開くと内側の布は深い灰色。そこに、銀の輪が小さく光った。 「満月を、胸に」 まっすぐに言う。言葉に飾りは要らなかった。 小夜は目を見開き、そして、ゆっくりと息を飲んだ。 「……きれい」 丸い満月を模したペンダントは、銀の円盤には細かな凹凸が刻まれていて、浅い皺が月面のクレーターのように光を拾う。中心には薄い螺鈿の欠片が埋め込まれ、角度によって淡い青や薄い金に光る。 細い鎖の質感が、彼女の肌に乗っても軽く、冷たさだけがそっと触れるように選んだ。 ――いつか、海辺の雑貨店で見つけて、すぐに「これだ」と思った。 そのときの俺は、いつ渡すかをずっと考えていて、満月の夜がいいだろうか、期末が終わった夜がいいだろうか、と小さな未来のどれかに印をつけていた。けれど、噂は印の上からマジックで塗りつぶしていくようで、今日という日付を浮かび上がらせた。 「いつか、小夜が“手が届かない”って言った月を、届くところに置いておきたかった。海に浮かぶ月は、近く見えるけど、やっぱり遠いだろ。だったら、胸元にひとつ、置けばいつでも手が届くと思って」 言いながら、恥ずかしくなってきた。自分の一途が滑稽に見えてくる瞬間がある。だけど、もう戻れない。戻る気もない。 「……つけても、いい?」 「もちろん」 小夜はペンダントを指先で持ち上げた。月の面が彼女の瞳に映り、細い鎖が空気の柔らかさを切る。髪を後ろに手でまとめ、うなじを露わにする。その仕草だけで、夜が少し震えた。 俺は背後に回り、鎖の留め具をそっと合わせる。指先が彼女の髪に触れ、首の皮膚にほんの一瞬だけ冷たさを置く。彼女が僅かに息を吸ったのが伝わった。 留め具が小さく音を立てる。彼女が前を向くと胸元に小さな月が浮かぶ。 海の光と、ペンダントの光と、彼女の肌の光が重なって、夜の温度がひとつ上がった。 「……鉄」 呼ばれて、顔を上げる。 小夜の瞳は、月の表面を映したまま潤んでいた。涙は目の端のぎりぎりのところで光に留まって、彼女の言葉の代わりに震える。 「どうして、ここまで――」 「好きだから」 「簡単に言うなぁ」 「簡単に言うよ。そうじゃないと嘘みたいになるから」 彼女は困ったように笑って、首を小さく振った。 「きみは、ずるいよ。ずるい男だ」 「……うん」 風が、二人の間を抜けた。 しばらく、言葉が要らなかった。 月は静かで、波は一定で、胸の内側の重さが、少しだけ形を変える。 「鉄……」 「ん?」 「私、今、学院で……」 「知ってる。少しだけ」 「噂は、噂じゃない顔をして広がる。私の顔の上に、知らない顔が乗っかてる。みんな、その顔を私のものだと信じる」 俺は、彼女の手を取った。冷たい。けれど、握り返す力は確かだ。 「俺は、君のことを信じてる」 「それでも、鉄が倒れた」 「俺は、俺が勝手に倒れただけだ」 「私のせいじゃないって言うの?」 「言う。言わせてほしい。――俺は、自分の選択で、君に会って、君に触れて、君の言葉を聞いてるんだ。だから、倒れても、俺のせいだ。君のせいにしない」 小夜は唇を噛んだ。月の光が彼女の胸元の銀の輪に跳ねて、砂の上に小さな光の破片が落ちる。 「ありがとう」 それは、深いところから上がってきた音だった。 彼女は笑って、すぐに笑いをしまい、胸元の月を指でそっと押さえた。 「これ、ほんとに綺麗。……ずっと、欲しかったものかもしれない。形も、意味も。月に触れるための、言い訳だから」 「言い訳?」 「うん。月は、見上げるものだから。触れてはいけないものだから。――触れていいよ、って、誰かが言ってくれないと、触れられない」 彼女の言葉は、詩のようで、真実のようだった。 その“誰か”に俺がなれるのなら、いくらでも言う。触れていい。触れたい。触っていてほしい。そういう言葉を、彼女のために用意しておく。 夜はすっかり降りて、海は黒く、波の白だけが浮かぶ。 俺はふっと笑って、意地を張るみたいに言った。 「似合うよ」 「ありがとう」 「はは」 「ふふ」 俺たちは笑い合って、その笑いの薄膜の下に、言えないことがまだたくさん眠っている。けれど、今夜は、そこを掘り返さなかった。 それでも、渡せた。胸元の月が、これからの彼女の夜をほんの少しでも軽くするなら、それで充分だ。 「送るよ」 「ううん。今日は、ここでいい」 「でも――」 「鉄、休んで。じゃないとまた、倒れちゃうよ」 言い切る声に、柔らかい強さがあった。 俺は素直に頷いた。 「また、メッセージする」 「うん」 帰りの足取りは、来たときよりもまっすぐだった。 胸の重さは相変わらずだが、重さの形が変わると、持ち方が変わる。持ち方が変わると、同じ重さでも少し軽くなる。 バスの窓に映る自分の顔は、さっきより生きていた。 彼女の胸元の月が、目を閉じるたびにまぶたの裏に浮かぶ。 あの光は、永遠ではない。鎖が切れれば失われる、風にさらされれば曇る、人の手が触れれば傷もつく。 だからこそ、尊いと思うし、今夜、渡せてよかった。 部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。 スマホが震えて画面を見ると、小夜の名前があった。 小夜《月、きれい。鉄の、月。ありがとう》 鉄《似合ってた。こっちこそ、受け取ってくれてありがとう》 小夜《おやすみ、鉄》 鉄《おやすみ、小夜》 短い往復だけれど、胸に残る余韻は長い。 目を閉じると、波の音がすぐそばに来る。 眠りの縁で、ふと思う。俺は弱っている。それは事実だ。 けれど、弱さは、寄りかかれる場所を見つけるための、必要なんだ。 寄りかかることを、俺は覚え直している。寄りかかり方を、彼女に教わっているんだと思う。 ――そして、俺はまだ知らない。 その夜、ペンダントの冷たい円が、小夜の胸の上で、彼女の「ふた」を静かに揺らしたことを。 “触れてはいけないもの”に触れてしまったとき、人はどうなるのか。 月は、近くにあるほど、影を濃くする。 次に会う夜、影は輪郭を手に入れるだろう。 それでも、俺はそこへ行く。行ってしまうだろう。 だって、俺は――恋をしているんだから。あとから聞いた話だが、俺が学校を休んだ日、昼休みのざわめきが薄くなるタイミングで、小夜は教室の真ん中で甚太に声をかけたという。「甚太くん、少し相談があるの。……ここじゃなくて、図書室で」 声は落ち着いていて、でも背中に風を孕んだみたいに軽かったらしい。クラスの視線が集まる。男子の何人かはわざと聞こえる声で笑って、女子の何人かはノートを閉じる手を止めた。「おう、わかった。すぐ行く」 甚太は、あくまで普段通りに返したという。 けれど、「みんなの手前」彼は了承した。みんなの前で了承する、ということがどういう意味を持つのか、あいつは薄々察していたのだろう。 後に本人がぼそりと言った。「あの時点で、俺はどこに風が吹くかだいたい分かった。……でも、風上に立つことと、誰かの風除けになることは、たまに同じ意味なんだ」と。 俺はその頃、部屋のベッドと天井の境界をぼんやり眺めながら、一日に何度も浅い眠りに落ちては浅い現実に戻ってくる、を繰り返していた。スマホの震えだけが、乾いたところに落ちる雨みたいに、現実を連れてくる。 蓮花からのメッセージは、相変わらず具体的で、やさしい。蓮花《鉄、生きてる? プリント、ドアノブにかけといたから。ごはん食べた? 無理ならゼリーでも摂ってね》 甚太は短く、命令形が多い。甚太《とりあえず寝てろ。ちゃんと飯食えよ。既読したら寝る!》 小夜からは、夜になると必ず一通は届いた。小夜《今日の月、雲に隠れたり、出てきたりしてるよ》 俺は『見たい』と返し、『見よう』と続ける。 返事より先に眠気が来る日は、スマホを胸に置いたまま眠ってしまう。目覚めると、朝の白い光のなか、画面に「おやすみ」が煌めいている。 数日そうして過ぎ、体の芯の重りが少しだけ軽くなった頃、俺は登校した。 玄関の靴箱の鉄の匂い。廊下の風の塩。教室に入ると、いつもより視線の針が数本だけ増えた気がした。俺が戻ってきたこと、小夜のとなりに俺が座ること、その二つが同じ文脈で見られている視線。「鉄」 最初に声をかけてきたのは蓮花だった。眉の角度が普段の元気印より二度くらい下がっている。「顔色、よくないよ。帰れって言われたらすぐ帰るんだよ。いい?」「大丈夫。今日は、来たかったんだ」「“大丈夫”に“ほんと?”って重ねる役、私もう飽きてきたから、ほんとに大丈夫なやつだ
付き合いはじめてから、小夜は校門の少し手前のほうで待ってくれていた。 朝の光はまだ白く、海風は少し冷たい。けれど俺の胸の中だけは、季節がふたつ先を走っているみたいにあたたかかった。 「おはよう、鉄」 「おはよう、小夜」 名前を呼ばれるたび、耳の裏がくすぐったい。小夜は手を差し出して、俺が握ると、その手はやっぱり少し冷たかった。冷たさはすぐに俺の手の中で馴染み、ふっと息を吐くように体温をわけ合う。 「今日ね、窓際の席、光が柔らかいんだぁ」 「じゃあ一限目は眠気との戦いだな」 「私が起こしてあげる」 「頼んだ」 たぶん、そのやり取りを何度繰り返しても、嬉しくてしょうがないんだと思う。校舎に入ると、廊下の空気が塩のにおいを薄め、かわりにチョークの粉っぽさが鼻先にくっつく。登校してくる生徒の視線がふっとこちらへ揺れ、すぐに戻る。近すぎず遠すぎず、俺たちの輪郭をなぞって通り過ぎていく。 席につき、ホームルーム。連絡事項はいつも通り。俺がうっかりため息を漏らすと、小夜が横からメモ用紙を滑らせてきた。 『今日の月、十日目。帰りに見えるよ』 小さな字。きれいなクロッキーのような月のスケッチまで付いている。俺は親指を立て、メモの端に『見よう』と書き足した。紙一枚のやり取りが、胸の中の何かを静かに整える。甘いというより、落ち着くようなそんな感じ。 昼休みの屋上は風が強く、空は高い。 レジャーシート代わりに敷いたタオルの上に並ぶ弁当。俺は購買のパンを二つ。小夜は小さな二段弁当――上段は白いおにぎりが二つと漬物、下段は柑橘の切れ端がきれいに並ぶ。飲み物はやっぱり水だ。 「それ、足りるのか?」 「うん。このくらいがちょうどいいんだ」 「ちょうどいい」を見つけるのが、彼女はうまい。 俺が袋からメロンパンを出すと、小夜が少し身を乗り出した。 「それ、好きなの?」 「うん。子どもの頃からずっと好きだった」 「そうなんだ。……匂い、かわいいね」 「かわいい匂いってなんだよ」 「鉄に合うよ」 直球で言われるとなんだか照れる。パンが急に“特別なパン”になって、噛むたびに笑いそうになる。俺が水を飲むと、小夜がペットボトルの口元をのぞいてくる。 「炭酸じゃないの?」 「今日はやめた。……小夜に合わせた」
「なー今度の連休に四人でどっか遊びに行こうぜ!」 甚太の声は、昼休みの喧噪に負けない。教室の窓が半分だけ開いていて、海からの風が白いカーテンをふわりと押し上げた。 俺は机に肘をつき、すぐさま頷く。「おー! いいな、行こうぜ!」 こういうときの返事は早いほうが勝ちだ。迷っているあいだにチャンスの波は岸に砕ける。俺の信条である。「アンタらねぇ、来週には期末テストがあるのに、遊んでられないでしょ!」 蓮花がすかさず縦ロール(脳内演出)みたいな勢いで突っ込みを入れる。実際の髪はポニテだが、言葉の圧で三割増しに見える。「テストなんて一夜漬けすりゃなんとかなるだろ。なー鉄!」「おうよ! 人間追い込まれてからが勝負だからな!」 俺と甚太は肩を組み、拳を合わせる。ぱしん、と乾いた音がして、カーテンの白が一瞬だけ眩しく跳ねた。「ほんとしょうがない奴らね。小夜からも何か言ってやってよ」 蓮花に水を向けられた小夜は、ノートの角に指を添えたまま、少しだけ目を細める。「うーん、私も最近テスト勉強ばっかで疲れてたからな~。たまにはリフレッシュしたいな!」「さすが小夜! いいこと言う! やっぱりリフレッシュは必要だよな!」「アンタは勉強してないでしょ!」 蓮花の鉄壁ディフェンスが飛んでくる。だが、ここは攻め切る。「まま、あんまり固いこと言わずに。あとは、蓮花お嬢様だけだぜ!」「お嬢様、お願い!」 小夜が両手を胸の前で合わせ、少し首を傾げる。潤んだ瞳――というより、光の反射でそう見えただけかもしれないが、その角度は反則だ。「お嬢たま、お願い!」 俺も真似る。甚太は横で合掌して「南無」とか言っている。カオス。「ああ! もう、わかった、わかった! 私も行くわよ!」 甚太と小夜の圧に折れる形で蓮花は両手を上げ、俺は歓喜のガッツポーズ。直後、黙って脇腹に小さな拳骨をもらった。痛い。黙っていないのに黙って殴られた。理不尽だが、勝訴だ。「でも、どこか行くっていっても、どこにする?」「そうだなー。海なんてどうだ?」「海っていうと、あそこか?」「そっ! お前のお気に入りのところ!」 甚太が親指で海の方向を示す。俺の脳裏には、いつもの浜辺の光景が即座に浮かんだ。風で砂紋がうっすら変わる、あの緩い湾曲。防波堤の向こうで波が砕けて白い霧を上げる。満月の夜、海面に道
そんなこんなで、彼女が転校して来てから一か月が過ぎた。 最初の一週間こそ祭りみたいな人だかりだったのに、二週、三週と経つにつれて、あの渦は嘘みたいに萎んでいった。昼休み、窓際の席に人垣ができていたのは遠い昔。今では、授業の合間も放課後も、椿小夜は一人で静かに本を閉じ、水を一口含む。人気が去ったんじゃない。人気はある。けれど、その熱が彼女の半歩手前で立ちすくむようになったのだ。理由は、誰も言わない。ただ、教室の空気が「言わない」を選んでいる。「なんか急に椿さんの周りに人がいなくなったけど、どうしたんだ? 蓮花は何か知ってるか?」 朝の小テストが終わって、鉛筆をくるくる回しながら俺は訊いた。蓮花は消しゴムのカスをまとめ、少しだけ視線を泳がせる。「えっ? うーん……ちょっと、わかんないかな……」 蓮花にしては歯切れの悪い返答だ。いつもなら「はいはい、文化祭の時の“盛り上がりだけで近づいてくる勢”は三週間で自然淘汰されるの」みたいに軽口で流すはずなのに。妙に慎重な間。 そのことも気になったが、せっかく近づくチャンスだと、俺の足は勝手に「前へ」を選んでいた。「椿さん。次の移動授業、俺らと一緒に行きませんか?」 チャイムが鳴る直前、思い切って声をかける。理科棟への移動。いつもなら彼女は一人で席を立つ時間だ。いきなり話しかけられたからか、小夜は一瞬だけ不思議そうに目を丸くした。けれど、次の瞬間には、いつものように柔らかく笑って、頷いてくれた。「いいですよ。よろしくお願いします!」 その笑顔は、教壇での挨拶でも、廊下の遠目でも見ている。でも、こうして至近距離で受け止めると、胸の真ん中温度の急上昇が起きる。頬が、耳が、熱い。――落ち着け俺。落ち着け、落ち着け。「よっしゃ、四人で行こうぜ。エスコートは俺が請け負う!」 すかさず甚太が乗ってきた。こういう時の機動力はさすがだ。蓮花はふぅ、と息を吐いて肩をすくめる。「はいはい。じゃ、あたしは“後ろから見張る係”ね。鉄、変なこと言ったら足引っかけるから」「厳重すぎないか、その警備」「必要なセキュリティーよ」 先生の「移動授業だぞー、忘れもんないかー」といういつもの声を背に、俺たちは一斉に席を立つ。四人で廊下へ。教室のドアが開くと、風が入り込んでプリントの端がめくれた。海からの匂い。白銀海聖学院の建物は海に向
その夜、浜辺には誰もいなかった。 潮騒と、静かに寄せては返す波音だけが、月明かりに照らされる砂浜を支配している。 俺はそこに立ち、夜空に浮かぶ満月を見上げていた。 真珠のように白く、冷たく、けれど凛とした輝きを放つ月。その光は海面に映り込み、揺れるたびに形を変え、まるで手を伸ばせば掴めそうに思えるほど近くに見えた。「……きれいだな」 小さく呟いた声は、夜風にさらわれて消えていく。 急に胸が締めつれられるように苦しくなる。何かは分からないけど、大切なものが無くってしまうような。そんな、胸にぽっかりと穴が空いた気持ちになった。 どうしてか分からない。俺はただ、月を見ているだけなのに――頬を伝う涙に気づいた。 何に泣いているのか、自分でも分からなかった。 ただ、この光に触れたとき、心の奥で誰かを待っているような、取り戻せないものを探しているような、そんな感覚に押し流されていた。 この涙は、これから始まる長いようで短い青春の一幕を予感していたのかもしれない。 やがて俺は、袖で涙を拭いながら振り返り、月を背に歩き出した。これから始まる物語は、俺にとって忘れられない――いや、忘れちゃいけない出来事だということを、この時はまだ知らなかった。
「今日は一段と眠そうだな、鉄」「どうせ夜遅くまでゲームしてたんでしょ」 朝の教室。賑やかな声に肩を叩かれ、俺は顔を上げた。 声の主は、幼馴染の戌亥 甚太と柊 蓮花。小さいころからずっと一緒にいて、高校に入っても相変わらずの付き合いだ。 ちなみに俺の名前は虎牙 鉄弥。白銀海聖学院の二年生。海沿いに建つ中高一貫の進学校で、制服からはどこか上品さが漂っている……らしい。少なくとも俺はそう思ったことはないが。「そんなんじゃねーよ。ただ、昨日は月がきれいだったから」「ああ、満月だったな。……お前、また浜辺でぼーっとしてたのか?」甚太が呆れ混じりに笑う。「ほんと好きねぇ、ロマンチストっていうか。今度ポエムでも書いて読み上げなさいよ!」蓮花はくすっと笑って俺をからかう。「そんなの書けるかっての!」 俺が抗議する声をかき消すように、チャイムが鳴った。すでにホームルームの時間だというのに、担任はまだ来ない。「なんでも今日来る転校生が遅れてるみたいだぞ」甚太が小声で教えてくれる。 なるほど、それでみんな騒いでいたのか。耳を澄ませば、クラスのあちこちで「男かな?」「女かな?」「可愛い?」「カッコイイ?」と盛り上がっている。まったく、高校生にもなって転校生でこんなに浮かれるとは……。 ……いや、可愛い女の子だったら俺も浮かれる。できれば、アイドル級に可愛い子が来てほしい。「鉄、お前はどっちだと思う?」「もちろん女の子だな。可愛いならなお良し!」「はは、即答かよ!」「まったく……。目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに」蓮花が拗ねたように唇を尖らせる。「いやお前はもう見慣れてるし」「だな」「二人揃ってハモるなーっ!」 俺たちの笑い声に混じって、教室のドアがガラリと開いた。担任が入ってきて、教壇に立つ。「はいはい、席につけー。今日から転校生が来るぞ。みんな仲良くしてやれよ。……じゃあ、入ってきてくれ」 次の瞬間、教室の空気が凍りついた。 月の光を閉じ込めたような黒髪が背中まで流れる絹のような艶めいて、透き通る白い肌に、わずかに陰を宿した大きな瞳。 ――完璧な美貌の少女が、そこに立っていた。「椿 小夜と申します。家の事情でこちらに転入することになりました。……どうぞ、







